2003坂内2DAYSエンデューロ24H

 Attention!
  レースから日が経っているため記憶で書いてます。
  多少話が前後していたり実際と違うところもあると思いますが、大筋あっていればご容赦を。


#01 Standing by

-1年半前-

 この「坂内24耐参戦」の話がでたのは、単にチームのメンバーの1人がこのコースの近所に住んでいたからだった。
 当時はまさか参戦するとは思わなかったが、いつの間にか出場も決まっており、気が付けば10年選手のDT200WRの蘇生作業が開始されていた。
 人間もマシンも限界を強いられるこのレースは、普通の3時間耐久では予想も出来ないトラブルを引き起こし我々を悩ませた。
 プチプチ切れる安物チェーン、砕け散るドリブンスプロケット、消し飛ぶテールライト・・・。
 

 様々な試練に耐え何とか完走するも、反省点はたくさん残った。
 24時間経過間近、何とか100周回ったと思っていた我々に対し、リザルトは冷たく「総周回数99周」と語った。 
 どこで勘違いしたのか? 皆、肩を落とした。

 そして、レース直後から総周回数3桁への我々の挑戦が始まった。

 →2002年の詳細レポはこちら

−2003年6月−

 いつものごとく、この時期に大阪は河内長野のプラザ阪下で行われるエンデューロには参戦する。
 気候も良く、花粉症の時期も終わっているからだ。
 そして、去年と同じく坂内24耐の話が出る。
 「今年はどうするのか? 参加するのか?? どのマシンで出るんだ???」
 こんな話題が仲間内で飛び回り、直に霧散する。
 そう、夏休みの宿題をギリギリまでやらないのは今も変わらないのだ。

 そして、問題は発生する。

 昨年使ったDT200WR、これを今年も使う線が濃厚だった。
 「来年も使えるから」ということで、皆でお金をかけて直したのだから。
 しかし、持ち主T邊のメインマシンWR250Fが、長期休暇を取って出かけた北海道ツーリング中に動かなくなり、このDTを通勤用に使うことになったためだ。
 このDTは使えなくなった。

 Y城が自分のBajaを使っても構わないと申し出たが、セル無し4ストに乗りたがるヤツは1人もいなかった。

 その時、一人の男がこう言った。
 「僕のRaid、使ってもいいっスよぉ」
 岐阜に住むK森だ。彼は最近R1を購入し、TT-Raidへの愛着が薄れていたのかも知れない。
 ・・・かどうかは定かではないが、この軽い一言でRaidの運命は決まった様なものだった。

 マシンは決まった。次はチームの体制、そして誰が走るか、だ。


-Team-

 先にライダーの話をしよう。
 今年は昨年に比べ「走りたい」というヤツが少なかった。
 昨年はレース前に怪我人続出。 そして、レース自体も雨天でかなりキツかったためであろうか。

 中にはチーム内では上位のスピードを持ちながらも、「金がないから出ない」ときっぱり言い切る者もいた。
 昨年のマシン提供者、T邊だ。
 どうやら北海道ツーリングで散財したらしい。
 ススキノで遊んだかどうかはナゾだ。

 そんな中、7名のライダーが名乗りをあげた。各位の下馬評を書くとこうなる。
 

 S尾: 昨年からバイクに乗り始めた。 経験は浅いがやる気は一番。
 HS川: バイク暦は最長。 新婚のため夜には強い?
 S田: 速さと安定性を併せ持つが昨年は直前に体調を崩した。 作戦参謀でもある。
 K山: 走りは安定しているが足場の悪いセクションは苦手。
 栗T: 最近の急成長株。 熱い男。 今年、K森と組んで坂内でのレースを走っている。
 K森: マシン提供者。 性格と同じくバイクにやさしい安定した走りをする。
 S木: パワーだるま。 エンジンブローしたらバイクを担いで帰ってくるような男。

 → チーム員の詳細はこちら 

 「ここまでくれば何とかなるな・・・。」N田は思った。
 N田、HSTRの代表でありながら昨年は練習中に手を骨折、更にレース数週間前にはS田のバイクで前転して入院。
 改造手術を受け、通称”メカN田”となった男。
 今年は走るのかと思ったが、どうやら本人はメカニックを希望の様子。
 「N田さん、今年も”メカ”っすねぇ」 K森の一言が場の空気を寒くした。

 こうしてライダーは決まった。


 次はチーム構成だ。
 24時間レースは3時間と異なりサポートの労力が非常に大きくなる。
 メカニック、状況把握、飯、防寒・・・と書いていてもよく分からないと思われるため具体的な話を書くことにする。

 まずHSTRというチームが他のチームと大きく異なるのは「体育会系」ではないということだ。
 このことを頭の片隅に置いて読み進めて頂きたい。

・今年のオフィシャル代表はK森だ。
 昨年はN田が代表であったが、K森は今年の言い出しっぺであるとともにマシン提供者であり、またコースの近くに住んでいる(別宅がある)ため必然的に決定。

・チーム監督にはN田が就いた。
 個性豊かなこのチームを纏められるのはN田しかいないから、本人の意思に関係なく必然的にそうなる。
 当面この先も変わることは無いだろう。

・7人を纏めるライダーチーフはS田。
 過去に某工大のオフ好きを率い、キャンオフ参戦から西宮スタジアムまでを走る。
 その経験を生かして幾多のレースに参戦、リタイヤ数ゼロを誇る。

・メカニック班はY城、T原、T邊の3名。
 Y城は昨年も24時間メカニックを行っており、酸いも甘いも知り尽くしている。
 いや、”甘い”は無いかもしれない。
 今年のピット構成は彼の意見が尊重され、昨年より格段に使いやすいものとなった。
 発電機等のインフラ関係はT原氏が一任された。
 とても個人とは思えない装備を展開し、チームを強力にバックアップする。
 一方でT邊もライダー、メカとも経験豊かであるが、…何をしていたかは後述する。

・調理班は柴TとT野。
 当初、現地で作る予定であったが、柴Tにはシェフとしてのプライドがあった。
 彼は学生時代に喫茶店、中華料理屋等でのバイト経験があり、料理の腕は生半可ではない。
 そんな彼は、コースから1時間ほどの実家で調理し、毎食配達すると宣言!
 T野は食事関係の備品の手配を担当、自宅近くにある24Hスーパーにてシェフの要求にこたえる。

・撮影班はY本、F田が担当。
 折角のレース、記録が残らなくては面白くない。
 持ち前の光学機器を駆使して記録を残す。
 また、コース各所に展開しての偵察活動、
 そして万が一の事態には前線連絡員となり、ピットへ情報を伝える。

・ピット設営はS木、S尾、HS川。
 土建関係に勤務するS木は、資材手配、運搬から設営まで一気にこなす。
 S尾、HS川は自立テントを持っており、それらを組み合わせてピット、パドックを設営する。
 今回のパドック構成は昨年悪条件の中サポートをこなしたS尾がデザインし、大人数の収容に備えた。

・マシン製作はK森、K山、栗TとS田。
 S田が作成したレースマシン作成メニューを参考に前述の3人が実作業を行う。
 単にS田は関西に住んでおり、残り3人とマシンは岐阜及びその近郊に在住しているからだ。
 
・会計はS尾とS田。
 2人いるのは単にライダー関連費とそれ以外で分けた方がやり易かったから。

 主な固定メンバーはこんなところだろうか。
 それ以外に遊びに来てくれた方、差し入れを下さった方、
 遊びに来たつもりがコキ使われた方はレースレポートの方で登場して頂く。

 ここで気付いた方はいるだろうか?
 N田は実に巧妙に仕事から免れているのだ。
 チーム監督という役職をいい事に好き勝手に動き回ろうという魂胆だった。
 しかし、それが浅はかな考えであるということに、まだ気付いていなかった。 

 

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